| 高齢女性とフェミニストカウンセリング〜痴呆について学ぶ |
9月30日、「高齢女性とフェミニストカウンセリング−痴呆について学ぶ−」をテーマに、WCK6周年記念シンポジウムを開催しました。
まず、フェミニストカウンセラーの井上から、フェミニストカウンセリングの視点からみた高齢女性の心理的問題として、次の4点を提起しました。(1)フェミニズムの視点のない社会で成長・成熟し、中年以降あるいは老年期にフェミニズムに出会うことによる困惑。(2)男女共同参画社会・ジェンダーの視点を知ることによって、自分の人生は価値がなかったのではないかという惑い。(3)介護をとおして起きる母娘葛藤の再燃。(4)DV被害者ではあるが、逃げるには遅すぎるし、DV夫の介護をほっとけないという束縛感。
そして、このような生き難さの問題の根っこには家父長制社会があるにもかかわらず、女性自身の個人的問題とされてきた、ややこしい人生の物語の結末をどうつけるのかという視点から、高齢女性には身体的ケアだけではなく、心理的ケアが必要だと強調しました。また、人生の物語の終章はフェミニズムという理想の実現を願うことと考えていると話し、一つの具体例として、ボーヴォワールが65歳の時に書いた「老い」という著作から「他者への関心・連帯を持ち続ける限り、人生は価値を持ち続ける」という表現を引用しました。ただ、自分が「痴呆」になった時にどうなるかわからない不安があるので、「痴呆」について学びたいと締めくくりました。
次に、読売新聞編集委員の清野博子さんから取材をとおして考えた「女はどこに帰っていくのか」という話がありました。老人ホームの取材で、夕方になると「帰りたい」と不安定になる高齢女性の存在を知り、どこに帰ろうとしているのか、帰ってしまったのかをいろいろ聞く中で、その女性が社会的役割を担ってがんばって、その役割が第三者から認められていた時代に帰るのではないかと考えるようになったと言います。「いま、ここで」の暮らしが私の居場所ではないと感じ、かつて、充実して、生き生きと暮らしていた私に戻るというわけです。つまり、老いていく自分を受け入れることができず、老いた自分のいる現実へ適応できないで現実の生活世界を否定し、自分の意識世界をその代わりにするということです。また、高齢になるまでの夫婦関係が介護する・される関係に反映し、妻から夫への虐待につながる場合もあるということです。
そして、「痴呆」になるのはどうしようもなくとも、「痴呆」になったときの生きやすさは工夫できるかもしれないと提案がありました。そのために「いま、ここで」の自分をそのまま受け入れることをキーワードに、自分に正直に、自分の人生を問い直し、周りの人間関係を問うていく必要があると話しました。
最後に、精神科医の藤本直規さんから「痴呆」についての話がありました。「痴呆」とは、記憶障害と判断力・思考力の障害によって、日常生活の活動に支障をきたしているうえに、情緒的不安定性・易刺激性・無関心・社会行動における粗雑さのうち少なくとも一つは認められる状態を指すということです。また、獲得された精神機能が何らかの病気で衰え、知識・感情・意欲に障害が出てくる状態とも言えるということです。現状では、知識が注目されることが多いけれども、それよりも「痴呆」をそのまま受け入れられる居心地のいい時間と空間と仲間が「痴呆」患者には必要だと話しました。また、こんなことに気をつけていたら「痴呆」にならないという予防法の話は、それをしなかった本人やさせなかった介護者が悪いんだと本人や介護者を責める論理になると指摘し、「痴呆」についての正しい理解が最良の治療であり、悪化予防の方法だと強調しました。
藤本さんが急患の仕事で遅れられ、3人の討論の時間がなかったのは残念でしたが、自己受容・自己尊重と「痴呆」という新鮮な切り口が提示された有意義な公開講座でした。 |
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